栃木の歴史

 

栃木は古い時代から下野国の重要な地位を占めていました。

奈良時代末期に勝道上人によって出流山がひらかれ、平安時代のはじめには慈覚大師によって太平山がひらかれました。

平将門による承平・天慶の乱の後、藤原秀郷の子孫がこの地方に勢力を伸ばし、鎌倉時代 元暦年間、小山宗政が長沼氏を興し、寛喜年間その子宗員が皆川の庄の地頭となり皆川氏を称するようになりました。

6代目の宗常はときの鎌倉幕府の執権北条高時にそむき、元亨3年その領地を没収され、小山氏の領するところになりましたが、宗員の甥の秀行から7世の子孫にあたる長沼秀光が皆川氏を再興し、皆川城にあって皆川の庄50余郷を領し、応永元年栃木郷に出城を築いたともいわれています。

戦国時代 北上してくる小田原の北条氏、越後より上杉氏、東北方より宇都宮氏、東方からは佐竹氏とそれぞれの勢力が進出するなかにあって戦乱は絶え間なく続きました。

天正18年豊臣秀吉の小田原城攻略のとき、領主皆川広照は北条氏との盟約により小田原城に入りましたが、その留守中豊臣方派遣軍に攻められて皆川城は落城しました。

徳川家康によしみを通じて降り本領を安堵され、天正19年から本格的に栃木城を構築。町づくりを行い、現在の栃木の基を築きました。

慶長14年皆川氏は改易され、本多大隅守の支配するところとなり、栃木城も取り壊されて城下町から商人の町へと発展しました。その後、慶長18年阿部善八郎と加藤喜助によって検地が行われてから、幕府の直轄地、旗本領、大名領などに細分されましたが、宝永元年に戸田氏の所領として足利藩に属し、明治維新を迎えました。

この間、市街地の中央を流れる利根川水系の巴波川を利用した舟運によって物資の集散地として北関東屈指のにぎわいをみせ、江戸との交易を通文化・経済ともに隆盛をきわめました。廃藩置県後、明治6年下野国を一つの県とする栃木県庁の所在地となりましたが、日光県と統合後、明治17年県庁は宇都宮へ移されました。これにはいろいろな事情が考えられますが、栃木県での自由民権運動の拠点であった栃木を三島県令がきらったことも一つの理由だとされています。

明治22年町村制が施行になるまでは13か村の戸長役場の所管でしたが、施行にあたり一部分合し、栃木町を編成しました。昭和12年4月1日に市制を施行、昭和29年9月近隣の大宮、皆川、吹上、寺尾村を、昭和32年3月に国府村を合併して市域を拡大し、現在、栃木県南の中核都市を目指して発展を続けています。